タイムリミット物語

無限に続く延長線上で、特に明確な切迫感もなく、影も形もない恐怖に怯えながら、或いは怯えという感情に支配されながら、それでも抵抗するしかないかもしれず、しかしその手段は暗中模索の過程で、三々五々に散乱していく崩壊の中、それでもなお救済があるのだとも考えている人間が一人、ここにいる。
それでは、もう、遅いのだ。
時間さえ消滅してしまえばいい。仕事が終わらない。そんな人間は、何億といるだろう。
それでは、もう、世界はおしまいなのだ。おしまいでいいのかと、きっと誰もが問いかけるだろう。それではないけないのだと、恐らく万国共通の言葉となって迸るだろう。
「どうして言い訳ばかりしているの?」
終わる。終わる。終わる。終わる。終わる。
「どうして滅びようとしている世界に拘泥しているのかしら?」
核ミサイルのハッピーセットをお贈りします。そんな手紙。結婚式の花束のような豪華な花束みたいな大量の手紙。毒が仕込まれているんだよ、と最後の一通に添えられていた。一枚一枚、破いていく。段々と床に無駄な文字の死骸が拡がっていく。
私と貴方の人間関係。世界と精神の相互性。刻一刻と時間は流れていきます……。
「どうして……」――もう何も浮かばない。そんな風に声質が変わった。
「どこから核ミサイルが降ってくるのだい?」
「さあ? そんな事、わかる訳ないでしょ」
ビリビリビリビリ。手紙を破きながら、二人は不毛な会話で沈黙を埋めている。一杯の手紙は部屋を占領している。嫌がらせじみた作業に圧迫され、二人は死んでしまいそうだ。
それでは、最早、何も手を付けない方が得策なのでしょうか。錯乱じみた核ミサイルのハッピーセット。それは狂気の沙汰ではなく、裏返しの真心なのかもしれない。
愕然とするしかない。手紙の破棄は終わらない。きっとずっと終わる事はない。時間制限は自分達で決めるものだと、頭の片隅でぼんやりと考えている。核ミサイルのハッピーセットという言葉の意味を理解しないまま、問答無用に手紙の破棄に追われている。
だがしかし、部屋はばらばらの紙片で溺れる事はないだろう。何故なら、観念的な世界に過ぎないからだ。空虚な構造物でしかないからだ。二人にとっても虚構じみた児戯に過ぎないからだ。
「けれど、わからないな。核ミサイルのハッピーセット
「核ミサイルのハッピーセット」と、相手の方は反復する。手は同じ行為を延々と繰り返しながら。ビリビリビリビリ。お贈り、し、ま、す、分解、物理的に。暴力的に。ちっとも幸せなんかじゃない。散漫として、蕭条として、そして空漠としている。爆撃なんかじゃない。それは明瞭に空爆と間違えているのじゃない。世界がダリの絵の時計みたいにぐんにゃりととろけてしまったみたいだ。朧気な記憶だけがはっきりとしている。この矛盾。
この曖昧さ。
「どうして、建設的な対処法を何も言ってくれないの?」
「言ったって何も変わらないからだよ。さあ、続けよう」
「やっているけれど……きりがないんだって」
「取り敢えず核ミサイルのハッピーセットは届かないよ。絶対に。断言してもいい」
ビリビリビリビリ。確信は空回り、それを確証づける裏付けは存在しない。核ミサイルのハッピーセットが届けられる可能性はゼロなんかじゃない。断言してもいい、という発言は、錆びた刃となって綻びて砕ける。願望? 希望? 妄想? それがどうあれ、何に対してであれ、空言の域を出ないのは明確なのだ。
「どうして……意味がないよ、こんなのって」――なげやり。逃げ腰。
「うん。意味がないね」
賽の河原で石を積むよりはマシだと思われる。続けられる事と続けられない事。二人は前者と後者の板挟みに遭っている。そもそも、核ミサイルのハッピーセットなんてものが、荒唐無稽なんじゃないか。
「世界が終わるなんて、どういう意味なんだろう?」
「意味を求めたって仕方がないよ。さあ、続けよう」
核ミサイルのハッピーセット、案外、誰かがこの世界で望んでいるかもしれない。核ミサイルのハッピーセット。お贈りします。ビリビリビリビリ。破いて破いて破いて破いて。それでもまだ破いて。破裂していく無数の言葉。解体されていく文章の分子。気化していく二人の行為。
それでは、無益なのだ。それでは、何の役得もないのだ。
「ねえ、こんなの、もううっちゃっていいんじゃないの?」
「そういう訳にはいかないよ。やらなきゃいけないんだから」
「どこからそんな決定事項が生まれたの?」
「タイムリミット」
「タイムリミット?」
「そう、タイムリミットがあるんだから」
一方の人間は、小首を傾げ、小さな疑問符を頭の中で沢山浮かべる。それとも格闘しながら、ビリビリビリビリ、手紙を破く作業を続行する。一枚一枚、時には複数をまとめて腕力に任せて引き裂く。
他方の人間は、話しかけられない限り、黙々と手紙の処理に没頭している。この二人の関係はどうでもよかった。主体性は手紙にあった。その影は核ミサイルのハッピーセット。部屋は白い残骸がどんどん膨張していく。ビリビリビリビリ。ビリビリビリビリ。紙は容易く破かれ、千切られ、引き裂かれ、破壊されている。
それでは、まだ、光明がさすかもしれない。
それでは、また、同じ事の繰り返しなのかもしれない。
「いつ終わるんだろうね」
「さあ、いつになるのかな」
「お腹空かない?」
「何か食べてきてもいいんだよ」
「そっち一人きりで任せられないじゃない」
「気を遣わなくていいんだよ」
「核ミサイルのハッピーセット
「心配要らないよ、そんなもの贈られてくる筈ないじゃないか」
それでは、二人、不幸でしかない。
ビリビリビリビリ。手紙は苦悩している。伝えられるべき情報が叩きのめされている。その現状に、手紙は異議申立をしたいのだが、いかんせん意志疎通の手段を持たない。一方的にやられるだけなのだ。無機質に発言権はないのだ。それが現実であり、物理法則であり、どうしても変化する事のない普遍性なのだ。変化球も許されない。ビリビリビリビリ。まるで否応無く虐殺にさらされる少数民族のように、同じ文面の手紙は処分されていく。核ミサイルのハッピーセット、不在の、虚偽の、いや真偽の定かならぬ贈り物の報知。そんなものは、今の二人だけに限らず、破棄されてしかるべきなんじゃないか。燃やされないだけマシかと、一通の手紙は漠然と思った。そんな風に、真面目に手を動かしている方の人間は空想した。
それでも、なお、世界は存続している。人間は生存している。核ミサイルのハッピーセットが実際に贈られてきたとしても、この二つの不滅性は地球のどこかで担保されているのかもしれない。小さな一室の微かな抵抗運動は、無意味かもしれないし、非生産的かもしれないが、二人の人間にとって、確かな能動的な行為なのだ。それは敷衍して、生きている事の実感に繋がるのかもしれない。
それでは、まだ、希望はあるのかもしれない。目に見えない寿命に抗うバイタリティーが、二人の中で沸々と滾っているのだろう。
「疲れたよ」
一方が言った。愚痴ばっかりこぼす方が言った。他方が手を止めて、じっと一方の人間の顔色を窺う。
「それじゃあ、休もうか」と、他方の人間が提案する。手は休めない。それを見て、一方の人間は恨めしげな眼色を浮かべる。
「合意が欲しいんだよ、何事にもね」
「面倒臭いね、それは」
「そうだね、面倒臭い」
それでは、きっと、二人は寄り添い合えないだろう。それでは、恐らく、二人はずっと手紙の処分が終わらないだろう。延長され続けるタイムリミット。無限の時間という牢獄が、二人にのしかかっている手紙の重量となって襲っている。本当に、面倒臭い。ただただ、ひたすら、面倒臭い。嫌になる。それだけなのだ。
わかってくれませんか? わかってくれません。時間は有限なのです。支離滅裂だけれど、間違っていない事実には勝てないのだから。
遂に、一方の人間は手の動きを止めてしまった。底の割れたバケツで水を汲んでいるような不毛さに、とうとう嫌気が差してしまったのだ。
それでは、もう、負けを認めてしまうのか。いや、そうではない筈だ。負けてはいない。客観的に明らかに負けだが、みっともない精神論かもしれないが、一方の人間は、自分に敗者の烙印を押した気分なんかじゃなかった。
手を止める行為がそのように結実するとは考えていなかった。
「はあ……」
破る音に重なる息。
「ねえ……」
ビリビリビリビリ。
「聞いてない? タイムリミットがあるから?」
「そうじゃないけど……そうじゃないけど……」――迷いの声音。手が震える。声も震えている。返す言葉がない。
核ミサイルのハッピーセットが現実に贈られてきたら、一体、どうしますか? その問いに意味はありますか? そもそも、核ミサイルのハッピーセットとは何を指しているのですか? 誰もわからない。二人もわかっていない。二人は、大量の手紙の処分に追われているだけなのです。
それでは、きっと、核ミサイルのハッピーセットは贈られてくる確証もないし、状況は遊離したままなのだ。合致する事は絶対に無い。
ビリビリビリビリ。手紙を破く音が一定で続いている。堂々巡りで飽き飽きしてくる、一方の人間は茫然と立ち尽くしている。それでも、この部屋から逃げ出そうとはしない。それは別の次元の選択肢であって、手紙の対処とは別問題なのだ。
理解を求めているのでしょうか? 木霊のように、室内は億劫な空気が蔓延しているだけなのでしょうか? そもそも出入りする扉があるのかどうかさえ、はっきりしていないんじゃないか。
「終わらないね」と一方の人間が未練がましく言う。
「うん。確実に終わらない」と他方の人間は忍耐強く手紙を破りながら(ビリビリビリビリ)返事する。
それでは、恰も、陳腐な不条理を演じているだけなのだ。それではいけないんだ、と一方の人間は意識し始めた。扉を探さなくてはならないのかもしれない。新世界への扉。この部屋からの脱出。核ミサイルのハッピーセットをお贈りします、なんていう空疎な文言に背を向けて、自分自身を取り戻さなくてはならないのかもしれない、と感じ始めている。何故か従わざるを得なかった作業を放擲し、新たな一歩を踏み出そうと心が若干傾いた。